日本近代史話bot つぶやき内容

自作botのツイートですが、いっきに全部読みたい人のために一覧をのせておきます。

  1. 将軍家慶はペリー来航の月に死んだ。ショック強すぎた?とかね。
  2. 一橋派は外様と親藩。それは従来の幕政が譜代大名(と旗本)が中心だったから。つまり政権交代を目指した。だから開国派の島津と攘夷派の水戸が組んだ。
  3. 横浜港は神奈川の代替。通商条約では神奈川になってるが安全のため宿場町の神奈川を避けた。同じパターンが兵庫と神戸。
  4. 幕末の貿易で国内の綿織物も絹織物も衰退するが、両者の理由は真逆。綿は輸入の急増で国産が潰されたが、絹は生糸が輸出急増で品不足を起こした。
  5. 文久の改革(島津「久」光だけに)は、実は一橋派の復権。生麦事件は久光の帰路のトラブル。生麦は横浜の近く(現在横浜市内)。
  6. 改税約書(1866)で日本は不利となり貿易は輸入超過に転ずるが、その要因の一つは四国艦隊下関砲撃事件(1864)の幕府賠償金の減額。長州の責任を幕府が負ったのは、幕府が攘夷決行を約束していたから。その場凌ぎのウソは最悪の結果を生む。
  7. 孝明天皇は攘夷派だが公武合体派。だから彼が死んで武力倒幕派が動く。孝明天皇には暗殺説があり、犯人は岩倉だと疑われた。たぶん濡れ衣。
  8. 討幕の密勅と大政奉還は同日。ちなみに王政復古の大号令と小御所会議も同日(昼と夜)。ついでに戊辰戦争で大坂城にいた慶喜は、徹底抗戦を宣言したその夜に軍艦で大坂を脱出。幕末は忙しい。
  9. 戊辰戦争と明治政府の建設は並行。鳥羽伏見→五箇条の誓文、江戸開城→政体書、東北の鎮圧→明治改元、箱館戦争→版籍奉還。
  10. 岩倉使節のトップは薩長ばかりで土佐肥前組は居残り。西郷は重石(のはずだった)。その岩倉使節が帰国して内治優先派になり、明治6年の政変で留守政府の主力(征韓派)が下野→土佐・肥前が民撰議院設立建白書。要するに総替え。
  11. 薩長肥いずれでも不平士族の大きな反乱があったのに(西南戦争・萩の乱・佐賀の乱)、土佐にはない。その土佐が自由民権運動の起爆点となったのだから分かりやすいでしょ。
  12. 四民平等は徴兵制の前提。「士ハ従前ノ士ニ非ス、民ハ従前ノ民ニアラス、均シク皇国一般ノ民ニシテ、国ニ報ズルノ道モ固(もと)ヨリ其別ナカルベシ」と徴兵告諭にある。
  13. 地租改正反対一揆の一つ、伊勢暴動の範囲が「三重・愛知・岐阜・堺県」と奈良県を飛ばしているのは、当時は奈良県が堺県に併合されていたから(このあと、その堺県は大阪府に合併することになるが)。
  14. 学制は1872年。ということは今年(2012年)は140年目(これで年代覚えたね)。今年創立140年の小学校は最も古いことになる。あなたは小学校の何期生でしたか?130期生そこそこなら、あなたの出身小学校は日本最古かも。
  15. 1872年は超超重要年。学制のほか、徴兵告諭、鉄道開通、国立銀行条例、壬申戸籍など。ちなみに壬申の乱(672)からきっちり1200年後、干支20まわり。もちろん全部留守政府。やりすぎやろ。
  16. 翌1873年も超超重要年代。徴兵令、地租改正条例、明治6年政変→内務省設置。あ、もちろん明六社(笑)。そしてこの1872→73年が太陽暦改暦。だから、徴兵告諭と徴兵令は実質は半月しか開いていない。
  17. 樺太・千島交換条約で北方を安定させたので、安心してすぐに江華島事件を起こした。だから2つは同年。前者の全権は榎本武揚で、函館五稜郭に立てこもった北方のエキスパート。その時の攻め手の黒田清隆が日朝修好条規の全権なのは、たぶん偶然ではない。
  18. 開拓使のマークは赤い☆。札幌時計台などに残る。開拓使の事業の中に麦酒醸造所があり、それを引き継いでいるのがサッポロビールなので、ロゴはかつて赤い☆だった。なお五稜郭とはたぶん関係ないがつなげて覚えるといいだろう。
  19. 「郵便の父」前島密は1円切手の肖像になって60年以上、さすがのロングラン。ちなみに発行当時(1951)はハガキ1枚2円、封書8円だった。いまでも郵便局で買えるのでノートやプリントに貼ってみませんか?
  20. 第一国立銀行→第一勧業銀行→現・みずほ銀行。第十三・百四十八・三十四銀行が合併してできたのが旧「三和」銀行→現・東京三菱UFJ。また、第十九銀行と第六十三銀行が合併→現在の八十二銀行(笑)。 なお現在「第三銀行」もあるが、旧国立銀行と関係はない。
  21. 大久保が襲われた「紀尾井坂の変」の「紀尾井坂」は旧"紀"州藩・"尾"張藩・"井"伊家の大名屋敷に接する坂だったから。因縁を感じなくもない。なお岩倉が襲われた赤坂喰違坂もすぐ近く。
  22. 民撰議院設立建白書を「日新真事誌」に発表したのは、たぶんイギリス人ブラック経営で治外法権=発行禁止にできないから。
  23. 西南戦争で西郷は自刃したが、生きてロシアへ渡ったとかの風説が流布。特に面白いのは、当時大接近していた火星が「西郷星」と呼ばれ、望遠鏡で見ると西郷が見えるという説。
  24. 明治14年の政変で大隈は罷免されるが、(1)彼は征韓派の下野後も政府に残った土肥派最後の大物だった。伊藤からすれば1段先輩。やりにくかったはず。(2)大隈は大蔵卿だった。ここで次の松方財政が始まる。
  25. 福島事件の原因となった県令三島通庸は薩摩出身。県令が中央から派遣されるという典型例。なおのち警視総監となって、保安条例を実行する。
  26. 自由党の解散は秩父事件の2日前。だから事件に参加したのは「旧自由党員」となるので、自由党を脱党したという意味ではないし、たぶん当人たちは自由党の解党を知らなかったはず。
  27. 初代総理大臣はもちろん伊藤博文だが、その組閣は憲法制定より4年も前であることに注意。また、松方(大蔵)や井上(外務)は内閣制度により卿→大臣となって留任したことを覚えておくと、松方財政や鹿鳴館外交の時期を覚えるカギにもなる。
  28. 色々と限界の多い明治憲法だが、議会はさすがに予算案の審議権は持っている。ブルジョア革命の基本に「自分たちが納めた税の使途を決めさせろ」ということがあるので、予算案の審議権がない議会はさすがにありえない。
  29. そう考えれば、納税の多い者しか参政権がないのも、歴史的にはある意味当然だったことになる。もっとも、各国とも普通選挙が導入されつつあった(フランス・アメリカなど)中でかなり遅れていたけど。
  30. 明治憲法では、反薩長藩閥=民権派=議会の力を最小限に抑える工夫がされている。内閣を議会から切り離し、さらにその内閣から宮内省を切り離して、天皇という切り札を絶対に渡さないようにしている。
  31. 将来の政党内閣も考慮して、同様に軍部も内閣から切り離している。それが統帥権の独立。のち、軍部大臣現役武官制でこれが「完成」するのだが、伊藤や山県たちは内閣から独立させた軍部も天皇同様に自在に操れると考えていたのだろうか。
  32. アイヌに対する明治政府の政策は厳しいもので、例えば樺太千島交換条約の結果、アイヌの人々は強制移住させられることになった。
  33. 井上外交期(1879〜87)は重要な時期。82年の壬午軍乱・84年の甲申事変のほか、82年福島事件・84年秩父事件など激化事件期 だし、松方財政期で82年日本銀行設立、84年払下概則廃止。82年は大阪紡績会社設立。そして85年内閣制度。ここにアンカーポイントを置くと良い。
  34. 大隈外相は爆弾テロで右足を負傷し、足を切断した。なので、これ以後の風刺画(たいてい熊)では足に包帯のような表現をしている。治療したのはベルツ。またその足は保存されて現存するらしい。
  35. 大津事件で司法権の独立を守ったとされる児島惟謙だが、翌年になんと花札賭博で辞職している。津田三蔵は死刑を免れたが、わずか4か月後に獄中死している(肺炎)。ふーん。
  36. 第1回衆議院選挙での最小得票当選は23票。選挙人の少なさを反映しているが、3000票で落選した候補者もいて、1票の格差デカすぎ。ちなみに当時の投票は住所氏名と捺印が必要。これで民党に投票するのは勇気がいる。
  37. この選挙では立候補していなくても投票されてしまうため、福沢諭吉は新聞に辞退広告を出している(福沢諭吉全集に収録されているたらしいが未確認)
  38. 壬午軍乱・甲申事変の時、朝鮮に駐屯する清軍の中心的人物だったのが袁世凱。のち中華民国大総統として日本の二十一箇条要求を受けることになる。
  39. 日清戦争の賠償金は色々に使われたが、金本位制の確立・八幡製鉄所の設立・京都帝國大学の設立の3つを覚えておくと(時期特定に)便利。実際にはほとんど軍備拡張に使ったけど。
  40. 下関会議の場所となった(図表などにあるあの絵)のは春帆楼という有名なふぐ料亭。現在もその現場が(春帆楼本店の隣に)保存されている。春帆楼の名付け親は伊藤博文。公式サイト→http://www.shunpanro.com/history.html
  41. 政党の力を弱めようとした第二次山県内閣が選挙法を改正したのは意外かもしれないけど、大選挙区にしたり選挙権を拡大すれば選挙活動が大変になるから、と覚えておけばいいだろう。
  42. 北京議定書で北京に日本軍が駐留することになった。この駐屯軍が、のちに蘆溝橋事件をまねくことになる。関東軍ではないことに注意。
  43. ハーグ密使→内政権剥奪、伊藤暗殺→併合と、韓国が抵抗することが裏目に出てしまう流れで理解すると覚えやすいだろう。(伊藤が併合には慎重だったという説が本当なら皮肉な結果だが)。
  44. 日清戦争と治外法権撤廃、日露戦争と日英同盟、韓国併合と関税自主権獲得が、それぞれ時期的に対をなしているのは覚えやすし興味深い。日本がアジアの帝国になっていく過程と、法制→軍事→経済の順で対等関係になっていく過程。
  45. 臥雲辰致の発明したガラ紡は、1877年の第1回内国勧業博覧会で最高賞を受賞した。この年は明治10年で西南戦争の年。内国勧業博を興したのは大久保内務卿。内務省の職務は民権運動対策と殖産興業。
  46. 産業革命では、軽工業・重工業の中で大阪紡績会社と日本鉄道会社が時期が早いことに注意する。ともに華族への金禄公債が資本金となっている。つまり秩禄処分とも連動。
  47. (2015年8月訂正)東海道線が全線開通した年と民営鉄道が官営を上回った年は同じで1889年。この年はたまたま明治憲法公布の年。かつ明治22年。明治は45年までなので、ほぼ明治の真ん中である。すべて偶然だが、利用して覚えよう。
  48. 足尾鉱毒事件の田中正造の天皇直訴文の草案を書いたのは幸徳秋水。彼は名文家で有名だったが、社会主義者が天皇直訴というのは本人も抵抗があったらしいが、田中の頼みを断れなかったとかいう話。
  49. 社会主義思想家は労働者階級とイコールではない。多くの思想家が、渡米して研究したりしているように比較的豊かな知識人に属する。だからどうということではないが、混同しないようにはしたい。
  50. 明治の内閣は、「イクヤマイマイ」までは見事に薩長で交互、「オヤイカサカサ」では政党(中心)内閣と長州系が交互になっている。日本人の派閥均衡の考え方は古い。しかし覚えやすい。
  51. 当時は議院内閣制ではないので、総選挙で勝利した政党が組閣するのではなく、組閣した政党が(与党になったことで利権などで優位に立ち)総選挙で勝利する、という逆の流れになることが多い。第二次護憲運動で変わるが。
  52. 洋菓子メーカー「ユーハイム」の創業者のドイツの菓子職人カール君は租借地青島で開業していたのが、第一次大戦で日本に強制連行され、そ の縁で日本で開業。(→公式http://juchheim.co.jp/policy/story)そのせいか、ユーハイムのロゴは帝政ドイツの国旗の 3色。
  53. 日本の二十一箇条要求を受理したあと、袁世凱は自ら皇帝となって帝政をしくが反発を受けて退位。そのあと死亡。段祺瑞は袁配下の有力者であるが、大総統ではない。
  54. 大戦景気で日本は工業国になった(農業<工業)が、重化学工業の比率は3割。あくまで主力は軽工業(紡績・製糸)であることに注意。製品の価格や重量のことを考えれば、いかに軽工業が量で圧倒していたことがうかがえる。
  55. 東日本大震災で東京電力の原発が福島など東北にあることが広く知られたが、大正に猪苗代発電所(福島)が東京へ送電するために作られたという話はまったく同じ構造だと分かる。ちなみにこの猪苗代発電所も東京電力である。
  56. 政友会の「せ」は積極政策の「せ」。ついでに鉄道との結びつきも政友会らしさ(鉄道国有法は西園寺内閣)。選挙権を広げることで支持層を「やや富裕層」へ広げたが、その層は私立大学の認可を求める層でもある。
  57. 東京駅の、原首相が殺された現場の位置には、モニュメントが残っている。写真と説明は→http://www.geocities.jp/tetsuyakuge/photo/ ※ただし駅の大改装でちょっと変わった。場所は同じ丸の内南口改札外。
  58. ウィルソンの「民族自決」と日本の「人種差別撤廃条項」要求が朝鮮の三・一運動高揚の背景にある。一方で、日本が要求を下げ、山東半島が中国に戻らないことが知れると、中国で五四運動など反日運動が高まる。そういう流れ。
  59. 米騒動(1918)に代表される社会運動の高揚も、ILOの設立(1919)に代表される労働者保護の動きも、ロシア革命(1917)の 影響が大きい。友愛会→日本労働総同盟、青鞜社→新婦人運動なども、これをはさんで性格が変わっていく。戦後恐慌が1920年から始まることも大きい。
  60. 普通選挙法の成立は1925年だが施行は1928年。普選前の選挙の議会を任期の最後まで引き延ばしている。同年(6日前)に治安維持法ができているが、日ソ国交樹立が同年なのは偶然ではないだろう。
  61. 山東出兵の理由の「在留日本人の保護」だが、なぜ山東半島に在留日本人がそんなにいるのか。青島占領からワシントン会議まで、日本が実効支配していたことが大きい。政治家は山東半島を返したが…。
  62. 統帥権干犯問題。濱口内閣の緊縮財政は当然ながら軍事予算にも及んでいたから、理論面だけでなく、軍の反発をかっていたことも要因。
  63. 満州事変への対応で第二次若槻内閣は倒れ、満州国承認を拒んでいた犬養内閣が五・一五で倒れ、次の齋藤内閣によって日満議定書が結ばれた、という流れで。
  64. リットン調査団による(日本に不利な)結果が出る前に、既成事実として満州国を承認した。リットン報告書が可決されて連盟を脱退した。だから、日満議定書→リットン報告書→脱退という順序。
  65. 松岡の退場演説(映像から聞き取ったので不正確かも)。Japan, however, finds it impossible to accept the report adopted by the assembly.和訳しよう。第五文型だよ。
  66. 二・二六事件の翌日の朝刊を見ると、岡田首相も殺されたことになっていて(実際には義弟)逆に切迫感がある。重傷を負った侍従長は後の首相鈴木貫太郎。
  67. 盧溝橋の別名はマルコポーロ橋。彼の時代の元なら大都。のちの北京。ただし中華民国の首都は南京。元は北方民族だから。これは世界史ネタだな。
  68. 張鼓峰って、満州、朝鮮、ソ連3国の国境だけど、そんな場所ココしかないわなあ。
  69. 1930年代後半のキーワードは「防共(反共)」。冀東防共自治政府、三国防共協定、第三次近衛声明、国共内戦、独ソ戦。
  70. 二次大戦開始→フランス降伏によって仏印進駐が可能になった、独ソ戦開始→ソ連劣勢→隙をつくように関特演など、他国の動きと日本の前後関係・因果関係がはきいりしているところがポイント。
  71. 日本の政策とアメリカの対応を柱に整理すると分かりやすい。北部仏印進駐→米の鉄禁輸→南部仏印進駐→米の石油禁輸→東條(軍部)が組閣→ハル・ノート→対米英開戦。
  72. ファシズムによる思想統制は、1937年の日中戦争開始(第一次近衛内閣)前と後で変化が見える。社会運動弾圧は、標的が左派(共産主義→合法左派)から合法右派へ。学問への弾圧も、日中戦争前と後で分けておくと良い。
  73. 翼賛選挙については、@太平洋戦争開始で1年遅れたこと、A太平洋戦争中でも総選挙が行われたこと、B翼賛会系以外も当選していること、Cこれが明治憲法最後の選挙ではないことなど、ポイント多数。
  74. 国民徴用令は「法」ではなく「令」。国家総動員法で議会の承認が不要になったから。以後の統制経済ではこのような「令」が多い。なお議会開設以前(明治前半)には、「〜律」「〜条例」が多く、やはり「法」は出てこない。
  75. サイパン「玉砕」は、B29による本土空襲の基地を提供してしまったが、その飛行場はもとは日本軍が作っていたもの。現在のサイパン国際空港。
  76. 降伏文書が調印された戦艦ミズーリには2つの星条旗が掲げられた。一つは真珠湾攻撃の時にホワイトハウスにあった星条旗で、星は48。開戦時も終戦時も、ハワイはアメリカの州ではなく自治州。
  77. もう一つの旗が、ペリーがサスケハナ号に掲げていた星31の星条旗。保存されていた。またミズーリが停泊した位置も、ペリーと同じ位置に停泊。

  増補
  1. 日英同盟を結んだことによる日本の利益はわかりにくいが、露仏同盟への牽制(フランスが参戦できない)、スエズ運河など世界の重要な港湾 を抑えているイギリスがロシアに冷淡になったこと、フランスもロシアに協力できなくなる(軍艦を寄港させることも戦争協力とみなされる可能性がある)な ど、ロシアの特に海軍はかなり不利。
  2. セオドア・ルーズベルトとフランクリン・ローズヴェルトは従兄弟。
  3. 大正の政局は、長州陸軍系・薩摩海軍系・政友会・反政友会政党系の4極で内閣を回している。長州陸軍系は専制的で不人気で、それが原因の事件で総辞職するパターン、薩摩海軍系は穏健派っぽい政策で、政策とは直接関係ない事件で総辞職するパターンと見れば把握しやすい。
 文化(2015年8月増補)
  1. 学校令は第一次伊藤内閣の森有礼文部大臣。国家主義的教育。1886年当時、民権運動が最も弱体化していた時期でもあり、憲法制定の時期でもあり、条約改正が強く求められるなど、国家意識が最も高まっていたことと呼応している。
  2. 学校令は小学校令・中学校令・師範学校令・帝国大学令の総称。ありそうでないのは大学令で、これは大正の原内閣=政友会の利権政治の一環。これで、「帝国大学に入るほど優秀ではないが早稲田慶応同志社といった私立大学には行ける学生」=中間富裕層も「大学出身」になれる。
  3. お雇い外国人から(留学帰りの)日本人教師への切り替えといえば、有名なのは東京帝国大学の英語教師ハーンと夏目漱石である。ところが、ハーンは学生に絶大な人気があったので、留任を求める運動が起こった。その中心だった学生が、のちの小山内薫。
  4. 野口英世=千円札の肖像。偉人だが彼の物語は複雑。まず、東大を出ていないため日本ではほぼ評価されず、アメリカのロックフェラー財団で 活動。帰国も数回。しかも、彼の研究成果は今では評価されていない(当時の顕微鏡ではウィルスは小さくて見えなかった)という、微妙な人。
  5. 明治美術は、文明開化=西洋賛美の中での「洋画の誕生」=工部美術学校→ナショナリズム高揚の中での「日本画復興」=東京美術学校と、そこから排除された洋画家による「洋画の再興」=明治美術会というのが大きな流れ。
  6. 竹久夢二は、雑誌の挿絵やカット・イラスト、ポスターやパッケージ、絵葉書やしおりなんかで当時女学生中心にバカ売れした。商業的な、いまでいうイラストレーターの先駆的な人。グラフィクデザインも手がけた。いわゆる画家としては当時高い評価はもらえなかった。
  7. ラジオ放送開始は1925年。テレビ放送開始はもちろん戦後。このテレビ・ラジオ関係は頻繁に入試(特にセンター)に出題されている。ギリギリだが関東大震災より後。 もし、関東大震災の時にラジオ放送があったら、朝鮮人虐殺のようなデマの拡散は防げたかもしれない。
  8. 明治には文芸協会にいた島村抱月・松井須磨子だが、妻子ある島村と松井に不倫スキャンダルが露見して坪内逍遥センセイ激怒、追い出されて芸術座を立ち上げた。なお、島村が1918年にスペイン風邪で死ぬと、2ヶ月後に松井須磨子は自殺した。
  9. (2015年8月増補1)明治期の思想は、文明開化期(1877まで)の功利主義、民権期(1884まで)の天賦人権論、以降の国権論という大きな流れで時期を把握する。国権論は日清戦争の前後で区別する(徳富蘇峰と高山樗牛に注意)。
  10. (2015年8月増補2)旧帝国大学は9つ、北海道・東北・東京・名古屋・京都・大阪・九州(旧七帝大)とソウル・台北。ちなみに一橋・神戸・大阪市立は旧三商大。高等商業学校が大学令で大学になった。
  11. (2015年8月増補3)当時難病だった脚気について、東大系や陸軍(例えば森鷗外)は細菌説に立っていた。北里柴三郎は細菌説を否定したため、母校東大に拒絶され、福沢諭吉の援助で設立した伝染病研究所の所長となる。
  12. (2015年8月増補4)『浮雲』は表紙の著者名が「坪内雄蔵」(逍遙の本名)になっている。二葉亭四迷は自分の名前では本が売れないと思い、師に名前を借りた。そんな自分を蔑んで「くたばってしめえ」と言うのが筆名の由来。
  13. (2015年8月増補5)明治の文人は総じて生活は苦しい。初期で安定していたのは読売新聞と契約していた尾崎紅葉くらい。その意味で別格なのが、陸軍軍医総監だった森鷗外と、朝日新聞と契約していた夏目漱石。まさに余裕派。
  14. (2015年8月増補6)貧困の象徴が結核。一葉、啄木、独歩、青木繁、滝廉太郎、等々。正岡子規は結核性脊椎炎。なお、「子規」=ホトトギスには血を吐くまで鳴くという伝説がある。『不如帰』の主人公も結核で死ぬ。
  15. (2015年8月増補7)狩野芳崖は西洋文化賛美の明治初期には仕事がなかなかなくて、陶磁器の下絵などを細々とやっていた。大作「悲母観音」を完成させた4日後に60歳でなくなっている。
  16. (2015年8月増補8)円本(1円は今なら約4千円)は、全巻予約制・月1冊発行だった。もっと気軽に、予約なしに買いたい人々に向けて販売されたのが文庫本。岩波文庫の巻末「読書子に寄す」を参照。
  17. (2015年8月増補9)雑誌『キング』(講談社)は、ピーク時には150万部を超えた。現在の雑誌ランキングでも、1位の週刊少年ジャンプ(283万)に次ぐ2位に入る。なお講談社が1931年に立ち上げたのがキングレコード。
  18. (2015年8月増補10)戦後の文化については、占領期と独立後の区別(特にノーベル賞)と、文化財保護(法隆寺金堂壁画焼失など)と三種の神器(新・旧)を押さえておくこと。
  19. 近代文化については、量が多いので深追いしすぎない、「作者・作品などの活躍内容」をセットにする、時期を分けておく、生活文化が(特にセンターでは)意外とよく出題される、などがポイント。