埼玉県と兵庫県の久下について(前編)

さて、私の苗字は久下(くげ)です。
「ひさした」「くした」「くさか」などと読まれてしまうちょっと珍しい苗字ですが、
日本史に絡む、教材的にも面白い苗字なんです。

今日は前編として、東西の「久下」という地名の場所をご紹介します。

後編はこちら


埼玉県の「久下」

 今年(2000年)夏、野球観戦のついでに行ってきました。18きっぷだったので(笑)。
 JR高崎線の行田駅を降りて国道17号線を西へ進むと、行田市から熊谷市に入ります。そして交差点名に「久下」が登場します。
 「久下」は埼玉県熊谷市の地名です。行田市との境、荒川沿いの地域で、小学校や役場などの名前に確認できました。

 また、集落の中を走る道は、近世の中山道であったようです。

 小学校・消防団・農協はほぼ一カ所にかたまっていましたが、そこに「久下神社」がありました。
 詳しいことは調べていませんが、この地域の産土神だと思います。

 自分の苗字が名前についた神社というのは妙な気分ですね。

兵庫県の「久下」

 こちらはかなり古い画像になります。私がこの地にカメラ片手に来たのは昭和61年(1986)でした。このこと、最初にお詫びしておきます。
 場所は現在の兵庫県山南町。ただ、昔の地名である「久下村」が、現在でもJR(加古川線)の駅名に残っています。

 ←古い入場券ですが

 集落に入ると、あちこちで「久下」の看板や名前を見かけます。こちらにはかなり「久下さん」がお住まいのようです。

  

 また、やはり久下小学校がありました(幼稚園も同じ校門でした)。さらに、学校のマークがあり、「久」の字がデザインされていて、面白かったです。「久下っ子」なる標語も見つけてしまいました。

これが
久下のマークだあ!


 ご覧のよううに、「久下」というのは地名としてこの2つの土地に残っています。小学校があるくらいですから、そうそう小さなものでもありません。
 この他にも、特に関東地方でいくつか地名があることも分かってきました。

 では、この地名(苗字)が日本史とどのように関係しているのかですが、これは長くなりそうなので次回(後編)に詳しく説明したいと思います。来週更新しますので、それまでお待ちください <(_ _)>
 ひとつヒントを言うと、中世史です。また「熊谷」がキーの一つになります。

↓ 続いて後編をどうぞ ↓


埼玉県と兵庫県の久下について(後編)

さて、ここでは「後編」として、
「久下」の歴史について調べたことをまとめてみます。


「久下」という地名について

 「久下」という地名を探してみました。
 『新日本地名索引』1(アボック社)によると、2万5千分の1地形図では、埼玉県飯能・川越・加須・熊谷・本庄、兵庫県山南、山口県豊田、茨城県八千代・下館、栃木県二宮、といった地域に見られるようです。けっこうあるんですねー。

 この地名の語源についてですが、『地名用語語源辞典』(東京堂出版)は、

(1)クケ(匿。漏)で、「水もちの悪い砂丘、砂地、自然堤防」などをいう用語か。(2)クゲ(公廨)の意味で、令制の「公廨田」のことか。

という2説を併記し、解説で、「関東平野の自然堤防上の集落に多い地名。おそらくクケ(匿。漏)の濁音化と考えて間違いあるまい」としています。自然堤防の説明は省きますが、このあたりにも教材価値がありそうです。

久下氏についての概略

 久下氏については、『兵庫県大百科辞典』(神戸新聞出版センター)に、

丹波の地頭。源満仲の弟武末の孫基直が初めて久下氏と称し、武蔵国大里郡久下郷に居住した開発領主。治承4年(1180)源頼朝の石橋山挙兵の時、一族の久下次郎重光は武功をたて、のちの源平合戦においても勇名をはせた。

とあります。頼朝に従った開発領主、つまり鎌倉幕府の御家人であったというわけです。

 さらに、久下氏の親戚に有名な熊谷次郎直実がいます。平敦盛を討ち取ったことでよく知られている人物ですが、この直実と、叔父にあたる久下直光との間で所領をめぐる争いがあり、建久3年(1192)、頼朝の御前で裁判が開かれます。『吾妻鑑』によると、熊谷直実はこの裁判を途中で投げ出し、その怒りに任せて即刻自ら髻(もとどり)を切って出家してしまうのです。

廿五日 甲午 (中略)早且、熊谷次郎直実と久下権守直光と、御前において一決を遂ぐ。これ武蔵国熊谷・久下の境相論の事なり。直実、武勇においては一人当千の名を馳すといへども、対決に至りては、再往知十の才に足らず。(中略)時に直実(中略)左右に能はずと称し、縡(こと)いまだ終へざるに、調度・文書等を巻き、御壺へ中に投げ入れて座を起つ。なほ忿怒に堪へず、西侍において、みづから刀を取りで髻(もとどり)を除(はら)ひ、詞を吐きて云はく、殿の御侍へ登りはて、と云々。すなはち南門を走り出で、私宅に帰るに及ばずして逐電す。(後略)

(新人物往来社『全釈吾妻鏡』2より 漢字は新字体に改めた)

 熊谷直実は、武芸には長けるが議論はヘタとのことですが、逆に言うと久下直光は口が達者なイヤなヤツということになるのでしょうか(笑)。
 それはともかく、関東御家人だった久下氏が丹波の地頭になるわけですが、その辺の事情は『兵庫県史』に、

『久下文書』によれば、承久の乱にさいして久下中務丞直高が恩賞として丹波国栗作郷地頭職を賜わり、丹波に移り住んだという。(中略)『太平記』によれば、足利尊氏が丹波篠村にて近国の勢を催したとき、当国の住人久下弥三郎時重は二五〇騎にて最初に馳せ参じたが(後略)

とあります。つまり丹波(兵庫県)の久下氏は、承久の乱にともなってこの地に入った新補地頭ということになります。
 新補地頭のわかりやすい例としては豊後の大友氏がよく使われますが、熊谷直実の知名度と教員の(それも珍しい)名前であることを加味すれば、それに劣らぬ教材効果がありそうです。
 上にあるように、丹波の久下氏は初期から足利政権側についています。『兵庫県史』によると、その後は主に北朝側で活躍し、正平16(1361)には「久下弾正大夫入道」なる人物が細川清氏から丹波国守護代に任命されるなど、丹波の代表的国人として活躍したようです。
 また一族の所領も、丹波国各地のほか、飛騨国宮石浦郷、丹後国宮津荘、但馬国朝来地頭職、和泉国大鳥荘、美作国神戸郷などがあったようです。

 なお、私の父は丹後半島の沿岸の出身です。上の中では丹後国宮津がかなり近いことになります。まあ、だからといって血縁がずっと続いていたとは限りません。また、別に自分の家系?を自慢しているわけでもありません。ただ、話題としては面白いかな、と。

(おまけ)熊谷直実の出家

 ところで上に書いたように、かの熊谷次郎直実の出家に、わが?久下氏は関わっています。『吾妻鑑』は、彼が訴訟に敗れた怒りから出家にいたったように書いています。
 普通、彼の出家の理由は別のことと考えられています。一ノ谷の戦いで年若い平敦盛を心ならずも討ち取ってしまい、このことから世の無常を思い、出家にいたった、というものです。この有名な逸話は、もちろん『平家物語』によっています。

 どちらがより真実に、直実の心情に近いのでしょう?
 作家の永井路子氏は、次のように述べておられます。

 もちろん『平家』の中にもいくばくがの真実はあろう。想像を逞しくすれば、直実自身、出家した後で敦盛を討取ったことを回想して、
「ああ、あの時は罪造りなことをしたものよ」
ぐらいは言ったかもしれない。
 が、一ノ谷の合戦のその当時の彼は敦盛を討取った瞬間、功名の喜びに眼をぎらぎらさせ、仲間に向って誇らしげにその首を振りがざしていたに違いない。この事はその数刻前の一番乗りに賭けた意気込みからも想像できる。彼は芯の髄からの東国武士なのだ。殺しあいには馴れている。若武者一人殺したことにショックをうけ、人生観まで変ってしまうような人間ではなかったはずである。もし本当に敷盛の死に無常を感じたのなら、そのとき出家してもよいはずなのに、八年間はそのまま鎌倉の御家人として仕えている。その事は当然、一ノ谷の一番乗り、敦盛討取の恩賞を喜んで受取っていたことを意味しはしないか。

(永井路子『つわものの賦』文春文庫93〜94頁)

 私も氏のお考えに賛成です。「一所懸命」の鎌倉武士が、これしきのことで世をはかなむとは考えがたいものがあります。
 『平家物語』は鎌倉時代の成立ですが、無常を重要な主題としている作品であり、そういう「好み」のようなものが、直実の出家の原因を敦盛に求めたのでしょう

 ところで、この話は江戸時代の芸能の題材として取られることにもなります。歌舞伎『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』、特にその三段目が「熊谷陣屋」としてよく知られています。
 その見せ場は、熊谷直実が差し出した敦盛の首を源義経が検分する場面ですが、ここではなんと!、敦盛の身代わりに直実の子小次郎の首を差し出すという展開になっています。そしてその後、息子への供養に、直実は出家するのです。
 義経が直実に敦盛の命を何とかして助けるようにと示唆し、直実は苦悩の末、主君への忠義のために自分の息子を身代わりにして敦盛を助け、義経も知らぬふりを通す、という筋書きなのです。
 何という変わりようでしょう。主君への忠義のために家を継ぐべき息子を身代わりに殺す…。鎌倉時代にはまずない、江戸時代ならではの価値観です。主君の裁きを放棄して当てつけのように出家しようとする『吾妻鑑』の熊谷から何とほど遠いことでしょう。

 逆に見ると、鎌倉武士の発想、『平家』の「好み」、江戸時代の価値観、この3つがいかに違うか、大きく変わっていくのだ、ということをとてもよく表しているのではないか、と思います。


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