世界史の授業と国旗7 イランとイラクと湾岸戦争
- イランはペルシア系でアラブ系でなく、宗教もシーア派が93%をしめている(イスラムの多数派はスンニ派)。
- A.D.6世紀ころ全盛を迎えたササン朝は、現在のイラクやシリアなどに勢力を広げ、高い文化を築いた。ガラス器やライオンの文様はその例である。その後、アラブ人のイスラム帝国の支配を受けてイスラム化するが、シーア派をかかげ、西のオスマン・トルコや東のムガル帝国と対抗した。1907年に制定された旧国旗は、中央にササン朝起源のライオン像があり、"王の中の王"をあらわしている。
その後1925年にはパフレヴィー朝が成立、1935年には国名をイランに変更している。- 第二次大戦後、介入してきたアメリカを背景とした国王の改革に対して、反対派はイスラム教最高指導者ホメイニ師(亡命先で指導)を中心に活動、1979年にはイラン・イスラム革命が起こった。国王は追放となり、ホメイニを中心とする反米政権が誕生。
- イランの新国旗は、赤・緑の帯の内側部分に「アッラーアクバル(アッラーは偉大なり)」の文字を上下合計22回くりかえしている。これは、ホメイニが亡命先から帰国したのがイスラム暦バーマン月22日だったからである。また、中央の紋章は1本の剣と4つの三日月で、「アッラー」の文字を図案化している。
- 1980年、イラクのサダム・フセイン大統領がイラン攻撃開始する(イラン・イラク戦争)。イラク国内にはシーア派も多く、革命の波及を恐れたとされる。アメリカがイランへの対抗上イラクを軍事援助したため、イラクは軍事大国化。戦争は8年に及ぶ長期戦となった。
- 1990年、サダム・フセイン大統領は、オスマン・トルコ時代にはクウェートはイラクの一部だったと主張し、隣国クウェートを占領(湾岸危機)。撤退を求める国連決議に対しては、同じように国連決議に従っていないイスラエルを持ち出し、自己を正当化した(これをリンケージと言う)。
- 1991年に、アメリカ中心の多国籍軍との間で湾岸戦争が起こり、イラクはクウェートから撤退する。1992年、サダム・フセイン大統領は国旗を改正、国民の結束をさらに強めようと「アッラー・アクバル(アッラーは偉大なり)」を追加した。