世界史の授業と国旗10 フランス革命と中南米諸国の独立

  1. 1789年のパリ市民によるバスティーユ牢獄襲撃から、フランス革命が始まった。革命は、ブルボン王家への不満、アメリカ独立の影響などを背景にしていた。革命政府は、自由・平等・主権在民などを謳う「人権宣言」を発表した。
  2. フランスの国旗は、バスティーユ攻撃の翌日、市民軍に与えられた帽章に始まる。赤と青はパリ市の旗の色白はブルボン家の色。また、当時強国だったオランダの3色旗をまねたとも言われている。発案したのは、「人権宣言」を起草したラファイエットである。
  3. その後フランスは共和制となり、台頭したナポレオンが皇帝となる(帝政)。ナポレオンは、イタリア・神聖ローマ・スペインなどヨーロッパ各地を制圧する。イギリス上陸には失敗し、大陸封鎖令を出してイギリスの孤立化を図る。その後、ロシアへの敗北を契機に没落。
  4. イタリアの国旗は、この遠征時(1796年)にナポレオンがフランス三色旗の青を緑に変えてイタリアの統一のシンボルにしたのが始まり。
  5. ハイティは、カリブ海に浮かぶイスパニューラ島の西部で、当時フランス領だった。90%が黒人だったが、本国フランスでの革命と「人権宣言」を受けて、1791年に黒人奴隷ムラートが反乱。フランスは黒人奴隷廃止を決議し、指導者のトゥサン=ルベンチュールを将軍に任命したが、ナポレオンは先の決議を破棄して2万5000人の大軍を派遣、トゥサンは逮捕され獄死するが、1803年に反乱軍が勝利、翌年独立した。
  6. ハイティの国旗は、フランスの三色旗から、白人を連想する白をぬき赤がムラート青が黒人を表す。青のかわりに黒を使っていた時期もある。
  7. この時期、中南米諸国が次々と独立する。これは、本国のスペインやポルトガルがナポレオン戦争で混乱したことが背景にある。ナポレオン軍は、がイギリスと友好的で大陸封鎖令に従わなかったポルトガルへ侵攻し(1807)、翌年にはスペインを占領した。また、植民地で実力を持つクリオーヨの本国への不満や、黒人国家ハイティの独立という脅威も原因である。
  8. 1808年、ポルトガルの王室はブラジルへ脱出した。1820年に国王は本国に戻り、皇太子ドン・ペドロをブラジルに残したが、1822年にクリオーヨたちの要請で皇太子が即位し、ブラジル帝国として独立した。1889年、軍部による革命で共和制に移行した。ブラジルの国旗は、中央の紋章が革命当日=1889年11月15日夜8時半の星空。星の数は首都と26の州を表す。州が増えると星の数が増えるのは星条旗と同じ。
  9. アルゼンチンでは、1806年にフランスと敵対するイギリス軍の侵攻をクリオーヨたちが撃退したことが契機となり、クリオーヨによる政権奪取が行われ、1816年にはラプラタ連邦として独立宣言した。アルゼンチンの国旗のうち、青と白は、イギリスを撃退したときの兵士の帽章の色で、白はラプラタ川を表すともいう。紋章は「五月の太陽」といい、独立戦争に立ち上がった1816年5月25日、ずっと雨天だったがこの日だけ晴れたという伝説の太陽。
  10. 南米独立には二人の英雄がいる。一人はサン・マルティン。アルゼンチン出身で、1818年にチリ、1821年にペルーの独立を指導した。 もう一人はシモン・ボリバール。現ベネズエラ出身で、1819年に現在のベネズエラ・コロンビア・エクアドルを含めた「大コロンビア共和国」を独立に導いた(1830年に分裂)。1822年にはペルーの独立運動をサンマルティンから引き継ぐ。1825年に独立したボリビアの国名は、彼の名前にちなむ。ベネズエラも、現在の国名は「ベネズエラ・ボリバル」という。
  11. ペルーの国旗は、サン・マルティンがペルーで赤い翼と白い胸の鳥=フラミンゴを見て驚き、その赤と白を解放のシンボルとしたことによる。紋章には、アンデス特産のリャマなどが描かれている。
  12. ベネズエラ・コロンビア・エクアドルの国旗は、横三色旗の配色がほぼ同じである(紋章は異なる)。これは、かつて一つの国であったことを反映している。なおコロンビアの国旗の3色は、黄色が新大陸の黄金資源、青は大西洋、赤はスペインを表すともいう。

 


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