古銭(2)
2002.07.09.


 近世になって独自貨幣を鋳造するようになるまでは、中国の貨幣が使われていました。日宋貿易でも日明貿易でも、銅銭は主要な輸入「品」でした。
 かつて律令国家が自前の貨幣--皇朝十二銭--を作っていた時には、必要性が低くて流通しなかったのに、その鋳造が終わってほどなく、今度は輸入しなければならないほど貨幣が必要になるとは、なんとも皮肉なことです。

 一方で金属銅が当時の日本の主たる輸出品でしたから、見事な「逆加工貿易」だったわけです。

 そんな話題にからめながら、渡来銭を見てみましょう。

 左が永楽通宝(永楽銭)、右が洪武通宝です。どちらも入手は比較的楽で、この程度の美しさで1枚100円くらいで入手できます。

 特に永楽銭は、事実上の「標準貨幣」でした。当時の土地の計量は、徴収できる年貢(収穫高ではない)の大きさで行われていました。年貢は多く銭納だったので「貫高制」と呼ぶのですが、これを「永高」とも言ったようです。もちろん、「永」は永楽銭の頭文字です。

 また、これは世界史になりますが、明の洪武帝・永楽帝が全盛期の皇帝として知られていることにも触れます。

 ところで、左の永楽銭の最後の下段の2枚を見ていただくと、文字が不鮮明でのぺっとしているのが分かります。実物を触ると感触の差は歴然で、厚みもかなり薄いです。
 いわゆる「びた銭」です。
 なぜ「びた」かというと、石の上に置いて金槌で叩くと、良質な銭は「チーン」と良い音があるが、質の悪い銭は「ビタ」というにぶい音しかないから、という説をどこかで見ました。真偽のほどは分かりません。

 なぜこんなになってしまったのか。私は最初、きっと使い込んで摩耗してしまったのだろうと考えていたのですが、よくよく考えてみれば、摩耗で厚みが減るというのはムリがあります。それによく見ると、中央の四角い孔がくずれすぎていますし、孔がの下の方に銅が流れているようなものもあります。鋳造段階の未熟さ。さらによく見ると、大きさも微妙に小さいような気がしてきます。

 おそらく、これらは私鋳銭でしょう。渡来した本物の貨幣から型をとり、それをもとに作られた「ニセ金」。そう考えると、孔が不完全だったり、小さかったり、文字の部分が不鮮明なのも頷けます。
 私鋳銭を作るには、銅銭を溶かし、異物を混ぜたり微妙に小さくして枚数を増やして差額を稼いだ、という手口を聞いたことがあります。
 また、貨幣の外周部分をそれとわからぬように削り、その削った分を集めて銭を作る、という手口もあるそうです。貨幣に例外なく縁があるのは、削ると目立つようにだそうです。
 そういう目で右上の洪武通宝を見直してみると、最初のものが不自然に縁が薄く、しかも縁の厚みが一定ではありません。文字は明瞭なのですが、あるいは削られたのかもしれません。

 この二つも渡来銭のようです。貨幣カタログで調べてみると、左は「至道元宝」(北宋)、右は「開元通宝」(南唐)と思われます。本物ならともに10世紀のものですが、どうでしょう?かなり怪しいですが....。

 中世の「撰銭」は、商業の発展を阻害するとして禁止されていきますが、こうした様々な種類(レベル)の貨幣がと飛び交う中では、やはり必要な作業だったのでしょう。


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