旧国立銀行のパンフ(前)



 これもまた授業で実際に使ったことはありません。というか、前から集めたいと思っていて、ようやくそろえたばかりなんです。
 ご存知のように、明治時代には「国立銀行」が数多く設立されました。ただし、これらは民間企業であること、紙幣を発行できたこと、それがインフレの一因となり、いわゆる松方財政の結果、発券銀行が日本銀行に限定されることなど、説明するポイントの多いものです。
 また、順に第一銀行、第二銀行、…第百五十三銀行というヒネリのない(笑)ネーミングもインパクトがあり、さらにそれが現在まで続いている銀行があることも、生徒の興味を引ける教材だと思います。

 ところが、この「番号つき銀行」について調べてみて、意外なことに気づきました。
 私はこれまで授業で、「番号のついた銀行はみんな旧国立銀行だよ」とテキトーな説明をしてきたのですが、実は必ずしもそうとは言えないのです。


 『会社四季報』掲載の「番号つきの銀行」は、次の9つです。

 このうち、問題があるのは第三銀行八十二銀行です。
 『日本貨幣カタログ1999年版』の資料によれば、

のです。現在の第三銀行と八十二銀行は、同じ番号の旧国立銀行とは別の銀行のようです。
 そこで、この2つの銀行のホームページでそれぞれの歴史を調べてみたところ、

ということがわかりました。後者については、19+63=82(笑)ということではないかと思われます。それしか考えられません。
 いずれにせよ、この2つの銀行を単純に「旧国立銀行」とは呼べないわけです。


【入手】

18.77.105 16.82.104

番号つき銀行地図 こうした話をする導入にしたくて、銀行のパンフや封筒などを集めることにしました。
 これら「番号つき銀行」は第一勧銀をのぞくと地方の銀行です。それぞれの本拠地(例えば第四銀行なら新潟)では有名・身近でしょうが、大阪では生徒はほとんど知りません。
 ただ、逆に大阪は東京につぐ大商業都市です。調べてみると、これらの銀行はすべて大阪支店を持っていました。ですから、比較的簡単に、資料を集められます。
 
 大阪の方はよくご存知のように、主だった銀行は御堂筋に集まっています。今回、淀屋橋から難波までにある6つを回ってみました(右図)。
 地図ではちょっと分かりにくいのが77、18、105でしょうか。七十七銀行は平野町5丁目で、道修町のバス停の近くです。十八銀行は八幡町にあるビルの2階。百五銀行は地下からの出口(25番)を上がってすぐです。
 面白かったのは、十六銀行がトムとジェリー、十八銀行があらいぐまラスカル、百五銀行がバーバ・パパという結構メジャーなキャラを使っていたことです。また、十六銀行に岐阜の観光ガイドなどがたくさんあったのも、地域との密着した関係がうかがえます。
 
 ところで、地図中の★は第四銀行があったところです。というのは、ごくごく最近に移転してしまっていたのですが、それを知らずに探し回ったんです(涙)。最新の電話帳でも地図でもここになっていますから、移転は今年(1999)のことです。
 『四季報』で見たところ、第四銀行大阪支店は中央区安土町1丁目で、堺筋本町よりさらに東になります。ちょっと遠いので、今回はパスしました。
 第三銀行は南船場二丁目(長堀橋駅近く)とこれも離れていますので、後日行ってみるつもりです。また、第一勧銀も再編で名前が変わるかもしれないし、仲間外れはかわいそうですよね。これらの画像が集まりしだい、後編を制作します。
 その折には、153もの国立銀行がどんどん再編されていく理由とか、昭和の金融恐慌との関連なんかも調べてみます。

→後編へ

 


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